TRPGにおけるPLの役割について考える人は、決して多くはない。

 何せ、TRPGを始めて最初の頃など、大抵の人が何をすればいいのか分からず右往左往するものだ。PLが何をするのかについて考える余裕などない。すぐにTRPGという『苦行』に愛想を尽かしてやめてしまう人も、少なからずいる。

 そして大抵の人が、PLの行動が『自分の作成したデータを持つ仮想人格(即ちPC)を動かし、システムとGMが提示するシナリオ中での行動決定を連続的、或いは断続的に実行する』ことであると知ってしまう。場合によっては、それはたった一言、『意思決定』という言葉で表される。



 それは決して間違っていない。

 そして、間違っていないからこそ、そこで考えることをやめてしまう。



 だが、上記の定義がPLという存在の本質を突いているのだとしても、それが何らの価値を持つと言うのか?

 例えば、具体的にPLが何を為せばいいのかは、結局のところ個々のPLの勝手な価値基準によって支配されざるを得ないのが実情だ。これは、PLが主、PCが従という構造が絶対的である以上、変えることの出来ない現実だろう。



 もう少し分かりやすく説明しよう。

 よく言われることだが、TRPGにおいて『キャラクタープレイ』という言葉がある。これは、要するに『キャラクターの性格や生い立ち・信条などの設定をPLが定め、その設定に従ってPCを動かす』というプレイスタイルだ。人によって若干の考え方の差異はあれど、概ねこの定義で問題はなかろう。恐らくは、日本で最も主流となる『ロールプレイ』の形態だ。

 これに対して『アビリティプレイ』という言葉もある。『キャラクターはデータの集合体であり、データの内容に見合った行動を取るのがPLの務めである』とする考え方だ。多分、言葉としては『キャラクタープレイ』という言葉よりも新しいものなのだと思われるが、元々はこちらの方が『ロールプレイ』の正しい意味だった。

 この辺の話は、私などが語るべくもなく、様々な人がウェブ上で論議し合っている内容なので、詳しいことは各人で調べて欲しい。

 何はともあれ、この『キャラクタープレイ』と『アビリティプレイ』のいずれかを選択すべきかすら、個々のPLの裁量に委ねられるのだ。

 そして、いずれかが正解であるなどというものではない。私に言わせれば、この話には正解など存在しない。

 ゲームによっては、どのような遊び方をすればいいのかの指針が得られるものもある。D&Dやアルシャードなどは、PLの役割が(厳密には、PLがどのようにPCを扱うのかが)大体決まっている。しかし、どのような遊び方をするのかがシステムによって決まるという例は稀だ。ソードワールドやセブン=フォートレスなどは、GMの作ったシナリオによってPLとしての遊び方は変化してくる。



 とりあえずは、こう定義しておこう。

 『PLはGMの要望に沿った遊び方を選択するのが正解』だ、と。

 さて、貴方はTRPGを遊ぶとき、そうしたことに注意を払うだろうか?

 いつも考えてプレイをしているという人は稀だろう。

 或いは、できる限り自分がPLとして遊びたいスタイルのやりやすそうな環境に身を投じるのだろうか? なるほど、それも一つの選択肢だ(ちなみに、実は他ならぬ私こそが、こうした行動を取るPLである)。だが、いつもGMがPLの要望に沿ったシナリオを用意してくれるわけではない。



 実際、コンベンションなどでは、自分の遊びたい環境が存在しない場合もあるかもしれない。なんとなく、ウェブ上のリプレイなどを読むと、日本のTRPGは『キャラクタープレイ』が主流となっているように思われている感があるような気がするが(←もしかして、俺だけか?)、コンベンションでPLとして参加すると、意外とそうでもないということが分かる。アリアンロッドやナイトウィザード!、無限のファンタジア、ガンドッグなど、21世紀以降に発売されたTRPGの多くが『アビリティプレイ』で遊ばれている光景は珍しくはない。

 それどころか、そうしたゲームの金字塔とも言えるアリアンロッドは、根本的に『アビリティプレイ』を目指したゲームになっている。リプレイも、一見ストーリー志向に見えて、実際のところ『アビリティプレイ』の側面が非常に強い(ダンジョンが少ないのは、あくまで様々な遊び方を提示することと、リプレイ執筆という作業を簡略化させることが目的だろうと私は考えている)。



 ともあれ、結局の所、『アビリティプレイ』を基礎とした上で、『キャラクタープレイ』にて遊ぶのが、最も汎用的で模範的な遊び方になると考えるのが妥当性が高い(尚、山北篤氏のサイト『このごろ堂』では、更に踏み込んだゲームプレイについての論考がある)。



 さて、ここで話を一転させよう。

 世の中には、様々な形で問題児ゲーマーなどと呼ばれるような人がいる。

 自分に有利であることばかりを追求するマンチキンなどと呼ばれる人がその典型だが、他にも、自己陶酔型のPLや他人の意見を聞かない人、単純にマナーを守らない人などもいる。必ずしもPLに限らず、GMにも問題児と呼ばれるような人はいる。

 はっきり言って、アビリティプレイが好きだとかキャラクタープレイが好きだとか、そういうこととは無関係に存在するのが問題児ゲーマーだ。中には、最早マトモなゲーマーに矯正するのは不可能なのではないかと思うような人もいる。

 もっとも、全ての問題児ゲーマーがそういう人というわけではない。むしろ、そうでない人のほうが多い。

 或いは、全く問題を抱えていないゲーマーなどいないと言ってもいいのかもしれない。ゲーマーに限らず、何かしらの問題点を抱えているのが人間という存在だ。コンベンションなどでは、私のことを問題児PLであるかのように扱う人がいるが、そういう人に限って私から見れば問題児PLに見えてしまったりもする。きっと、どちらにも非があるのだろう。

 ともあれ、私は『GMノススメ』というタイトルでコラムを書いているが、その内容も問題児と呼ばれるようなゲーマーを矯正していくことが目的の一つだ。



 閑話休題。



 実は、マスタリングという視点でTRPGのプレイ技術を考えるという意味では、私たちはかなり高度な水準まで達しているのではないかと思う(『私たち』というのは、日本のTRPGゲーマーのことである)。リプレイはTRPGを知る上で役に立たないなどという人も多いが、私自身はリプレイを含む、多数の資料から学んだところはあるし、それらを統合した結果は、ウェブ上だけを見ても非常に洗練されたものになっていると思うのだ。

 もちろん、今の状態が最高だなどと言うつもりは無い。ただ、TRPGという文化が日本で発達し始めたのが、今からほんの二十数年前であるという事実を考えれば、現代日本のマスタリング技術の発達スピードは私たち自身が思っているよりも遥かに速いのではないかと考えられる。

 一方で、PLの技術については、あまり発達しているという感じはしない。というよりも、先のアビリティプレイやキャラクタープレイの差異などのように、単なる個々のセッションの方向性によって変わり得るパターンのみが増え続け、それらの内のいずれかについて追求するなどの様な展望がほとんど臨めていないというのが現在の在り方だと考えられる。

 即ち、例えばアビリティプレイにおける遊び方の模範や、或いはアビリティプレイ自体の更なる細分化など、そうした形での発展が見込めるにも関わらず、TRPGに関わるほとんどの人が、それを無視してしまっているのである。

 実際、ダンジョンアタックとシティアドベンチャーでは全く遊び方が違うのだから、それぞれについてのプレイの方法論について、より詳細に分析してみてもいいはずなのに、コンベンションに行ってもそうした体系化の話をして付いてこれる人がごくわずかであるというのは、TRPG界において由々しき事態だと思う。



 もう一度書かせていただくが、PLの役割が『自分の作成したデータを持つ仮想人格(即ちPC)を動かし、システムとGMが提示するシナリオ中での行動決定を連続的、或いは断続的に実行する』ことであるというのは間違いではない。

 また、PLはGMの要望に沿った遊び方を選択するべきなのも事実だろう。



 しかし、それだけでは足りないのである。

 どのような時にどのようなプレイを心がけるのかという、具体的な規範がないからこそ、多くのPLが問題児PLという烙印を押されてしまうのだ。

 はっきり言って、問題があるとすれば、所謂問題児PL自体にあるというよりも、そうしたPLへの指針が実質的に存在しないことそれ自体にある。



 以上を踏まえた上で、PLの精神の在り方、更にはPLのするべきことを様々な状況に応じて考えてみたい。

 今回の文章はこの時点で結構な量になっているので、細かい話は次回に回そう。いずれにせよ、この文を読んでいる貴方自身も、TRPGを遊ぶ以上、自分なりの答えを考えた方がいいと思われる(まぁ、自分の生活を犠牲にしてまで考えることじゃないけど。興味があったらどうぞってことで)。



 …とか言っておきながら、私自身が考えない可能性も全否定はできないのだが。

 その時はその時ということで。




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