このコラム、第一回は「とにかくGMやれ」という内容だった。

 第二回は「GMを初めてやるなら、そう凝ったことはするな」という警告だった。



 三回目は、GMとPLが協力関係にあるものであるという点を再確認したい。





 一口にGMをすると言っても、その方法論は千差万別だ。



 戦闘を重視するのもいいだろう。

 戦闘以外の部分も含めて、総合的にバランスを取るのもいい。

 PLと協力して面白い物語を作るのもGMの役割だ。

 一方で、PLの無茶な行動を制することで、全体を統括するのも大切な役割である。





 まぁ、バランスの取り方については、その時のゲームの内容やGM個々人の価値観によって変わることだ。強いて注意すべきことを挙げるならば、自身の価値観を狭くしてしまうことと、他人に価値観を押し付けてしまうことは、できる限りすべきではないという点だろうか。



 ただ、ひとつだけ言えることがある。

 それは、TRPGの目的が、「参加者全員が楽しむこと」であるという点だ。FEAR社などは、それをルールブックに明記するなど、TRPGの娯楽性を強く推奨する傾向にある。そこまでする必要があるのかはさておき、「参加者全員が楽しむ」というのが大切な用件であることを否定する要素はない。



 ところで、ここで言う「楽しむ」という言葉は一体どういうことを指しているのだろうか?



 意外なことに、こう問われてすぐに回答できるTRPGゲーマーは多くはない。また、イマイチ的外れで一般論としては通用しないであろう意見を振りかざす者もいる(私がそうでない保証はないのだが)。  先にも書いたとおり、他者への意見の押し付けは基本的には避けるべきだ。「自分はいいPLだと思い込んでいる問題児PL」といった存在が実在しているという例などを考えてもらえれば、固定観念の怖ろしさは理解していただけると思う。



 実のところ、この「楽しむ」という言葉はかなりのクセモノなのだ。

 例えばの話だが、あるセッションにおいてGMもPLも全員が談笑をして、形だけはPCを作り、ほとんどPLが勝って同然の戦闘をし、あまつさえPLの提案を、内容を吟味することなく(矛盾点には目をつぶって)GMが笑って許容する――そんな状況を、あなたはどう思うだろうか? 少し抽象的な表現が目立つ例になってしまったが、できれば考えてもらいたい。

 この例の場合、参加者はおそらく全員楽しんでいるだろう。だが、「参加者全員が楽しんで」いればそれで本当にいいのだろうか?

 それでいい、とあなたが思うなら、それは微視的な見解だろう。こうしたPLが楽しめる環境は、例えばいつも同じメンバーでTRPGをプレイしているような場合に限られる。なぜなら、世の中にはゲームバランスや過酷なダンジョン探索・戦闘、或いは一定以上の整合性を持ったストーリーをGMとPLの協力で作り上げていくなどといった楽しみ方をするゲーマーが数多くいるのだ。そうした人々の中に、先の例に挙げたような人々が入っていくことが、果たして可能であろうか? 個人的には、否定的な見解を示したい。



 結局の所、「少数のメンバーで楽しむ」ということと「これから出会う人と楽しさを共有できるように努力する」ということは、全く性質の異なることであり、そして前者を満たすことは容易だが、それに囚われてしまうと後者を成し遂げることは困難になる。

 そして、おそらくFEAR社などの企業、そして多くのTRPGファン含むTRPGメディアが目指す「楽しさ」というものは、後者の方であるだろうと私は考えるのだ。なぜなら、前者の様な「楽しさ」はTRPGという媒体を必要としないものであり、結果としてTRPGというある種の潤滑油に価値を見出せなくなった瞬間にTRPGが捨てられてしまうような、非常に危うい楽しみ方だからである。



 とまれ、GMにとって重要なことは、PLのワガママに対して妥協をするなどといった、その場凌ぎの「楽しさ」を選択する方法論ではなく、自身の価値観や指針をしっかりと持ちつつも柔軟に対応するということであろう。





 さて、ここで一旦、話題を転換させていただく。





 再び例え話になるが、場合によっては(或いは、人によっては)、PLの行動によって途中でシナリオの予定を変えたり、戦闘データなどを改竄する場合もある。それを否定するのは簡単だが、様々な思惑が錯綜するTRPGの環境においては必要悪になり得るということまでは否定しがたい。



 実際問題として、多くの人が遊んでいるTRPGなどごくわずかだ。

 『パラノイア』や『ブルーローズ』『ルリルラ』あたりは、決して多くの人が遊んでいるわけではないだろうが(注:『パラノイア』はアメリカでは遊ばれているかも知れないが、これは日本の話ということで)、このあたりのゲームは、一種の固定ファンがついている気がするのでまだいい。

 『ドラゴンアームズ』や『秘神大作戦』なんかだと、固定ファンもいるにはいるが、かなり劣勢に追い込まれている気がする(余談だが、私は『ドラゴンアームズ』はかなり好きなシステムだったりする)。発売当初はともかく、現在遊んでいる人はさほど多くはないだろう。数ヶ月前に、偶然コンベンションで『ドラゴンアームズ』卓を見かけたので参加させてもらったことがあるが、PLの中で唯一私だけがルールやデータを知っているという有様で、はっきり言ってあまり遊ばれていないのだろうということがよく分かった。



 (と、書いてみたのだが、もしかしたらこの辺は地域によって差があるのかも知れない。だが、普遍的な人気を持っている一部のゲームに対して、明らかに劣勢に追い込まれているゲームが圧倒的多数であることには同意していただけると思う)



 で、なんでこんな話をしているかというと、前述の『ドラゴンアームズ』卓のGMさんが、「自分はこのゲームをもっと多くの人に遊んで欲しくてコンベでGMをしている」と言っていたのが結構印象に残っているからだ。言われてみれば、その人は、以前別のコンベンションで同じように『ドラゴンアームズ』のGMとして参加していた人だったと思い出した。逆に言えば、コンベンションで『ドラゴンアームズ』を自分からやろうと思う人は、私が住んでいる地域ではその人以外いないのではないかと思えるわけだ。



 この例は極端だが、特定のゲームの知名度を広めたいと思ってコンベンションなどでGM参加する人は、PLがそのシステムを嫌うことを避けて、場合によってはゲーム中にデータ改竄をしたりすることも大いにあり得る。そうした行為を全否定するのは難しいし、これがシステムひとつならまだしも、TRPGというメディアを広めたいと思っている場合なら、尚のことそうした行為は濫用されかねないのである。







 貴方がGMをする時に、どういったスタンスを採るかは自己判断に任せよう。だが、そうしたスタンスを何一つ考えないでGMをするのは正直な所オススメできない。

 それには以下の理由がある。



 もし、貴方がPLに対して甘いマスタリングをしたとしよう。するとPLは、「このGMは多少の無茶は許してくれる人だ」と思う。そこで、途中からいきなり厳しい戦闘などを織り交ぜると、油断しきっているPLは下手をすれば全滅する。

 逆に、厳しすぎるマスタリングを途中で甘くしても、なんとなくしっくりこない終わり方をする場合が多い(「なんかさぁ、ラスボスより雑魚の方が強くない?」とか)。

 もちろん、そうした意味ではデータ改竄は出来る限り避けるべきなのだろうし、PLの方にも精神的な強さが求められるのは否定しない。だが、そんな理想論だけでは動かないのがTRPGだ。



 すると、全体の統括者であるGMは、その場のメンバーの意見の中から、許容できるものとできないものを取捨選択し、必要に応じてゲーム過程に取り込んでいく役割を果たさねばならなくなる。



 ここで注意して欲しいのは、GMがPLの無茶やワガママに対する抑止力だとは須く考えてはならないということだ。

 最初にも書いたとおり、GMとPLは本来協力関係になければならない(PL間は言うに及ばず、だ。例えPC同士が対立関係にあっても)。また、「参加者全員が楽しむ」のもTRPGを遊ぶ上では満たすべき条件だろう。

 結局の所、TRPGを遊ぶメンバー内で、セッション中にリーダーシップを取るということもGMとして大切な役割なのである。その自覚を持って、その上で(自分を含む)全員を如何に楽しませるか。それができればGMとしては言うこと無しだろう。そのためには、「PLを制御する」のではなく「PLと共にセッションを作り上げる」という認識が必要なのである。――例え、それが理想論であろうとも。




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