さて、デジタルゲームとアナログゲームの話である。

 あなたは、前編の文を読んで、こう思ったかも知れない。



 ――「ところでRPGはどうなのだろうか?」と。



 コンシューマのコンピュータゲームとしてのRPGでも、選択の幅は無限大だ。プレイヤーは、好きなことをしていいのだから。

 しかし、処理をコンピュータに頼っている以上、そのシステムは離散的になるはずだ。要するに、デジタルゲームと呼ばれるものがアナログゲームだったということはありえないのである。





 一方、一般的に言うところのアナログゲームにしてRPGであるゲーム、即ちTRPGはどうなのだろう?



 HPや技能などの数値データは離散的だ。判定も、ダイスを使うにせよとランプを使うにせよ離散的だ(そもそも、トランプを使ったゲームは基本的に離散的だと、前編で考えたばかりじゃないか!)。  ……結局、これもデジタルなのだ。



 まぁ、当然の話ではある。勝敗を決定する必要のある何らかの処理系をアナログにするというのは、実は非常に困難なのだ。なにしろ、連続的な世界で、ある一点を境目に勝敗を決定付けるなど、どうしたって考えられないのだから。



 ……では、デジタルなゲームとは存在するのだろうか?



 実は、ないのである。少なくとも、勝敗が存在し得るゲームでは。何故なら、勝敗そのものがデジタルなシステムを要求するのだから。



 ――と、言いたくなるだろう(ならないならそれでもいいけどさ)。





 しかし、視点を変えてみれば、少なくともTRPGだけは、簡単にアナログゲームになりうるのだ。



 さて、勝敗が存在する限り、ゲームはアナログにはならないと言うなら、果たして『TRPGにおける勝敗とは何なのだろうか?』

 さきの文章では、実は行為判定における対決の勝敗のことしか語っていないのである。要は、いわゆる対抗判定や、(より巨視的には)戦闘などにおける勝敗では、確かにTRPGの処理系とてデジタルな物なのだ。しかし、TRPGはそれだけではない。



 TRPGを構成する重大な要素のひとつに、PLの意識でストーリーを変えることができるという点がある。これは、TRPGというジャンルがおよそ30年の歴史を積み重ねて、試行錯誤を交えつつ育ててきた重大な要件だ。これからも、TRPGのストーリーテリングの技術やテクニックは成長・進化を続けるだろう。そして、この点において、TRPGは他のゲームとは一線を画する特殊な存在になるのである。



 実際、TRPGのゲーム性は、ある意味では弱いのだ。単純なダンジョン探索ならともかく、主人公が世界を滅ぼす悪役を倒すなんて話を挿入した時点で、そこにはゲーム性以上にストーリー性の存在感が増してくる。それを肯定するか否定するかは問題ではない。そこには、デジタルではない『何か』が混在しているのが問題なのだ。



 さて、アナログなゲームの可能性を秘めるTRPGだが、実のところ、このような意味でのアナログゲームは世の中に多数存在している。

 例えば、取引先との商談や、恋の駆け引きなんていうものは、実にアナログなゲーム性を秘めていると言えるのではないだろうか? それらの流れは連続的で、しかも勝敗すら存在し得る。となると、これらはアナログなゲーム性を持ちうる事象となるわけだ。もちろん、実際にはゲームではないのだろうが。

 それどころか、TRPGでもイベントの花形である、戦闘という行為は、現実世界では非常にアナログなゲーム的存在だ。数値化して処理するが故に、それはデジタルになってしまうのである。



 同様に考えれば、TRPGが秘めたるアナログなゲーム性は、元来のTRPGの在り方とは異なった形で存在し得るのではないだろうか?

 例えば、あるPLの目的が、単に戦闘に勝利するだけではなくなった瞬間から、TRPGはGMと複数のPLの意志がぶつかり合う、アナログなゲームへと転換するのである。そこでは、デジタルなゲーム処理も手段のひとつとして存在しつつ、心理的なやり取りという意味では実にアナログなゲームを遊ぶことになるのだ。



 これが、面白くないはずはない――と言うと、言いすぎだが、私は面白いと思う。TRPGのゲーム性には、確かにアナログな側面を見出すことはできるのだ。



 ちなみに、アナログなゲームにおいては、参加者全てが勝利者足り得る。これも、TRPGの特徴を考えれば実に簡単なことだろう。



 一般に使われる意味でのアナログゲームという言葉とは、まったく異なった形で、確かにTRPGはアナログゲームなのだ。そこには、離散的な表現であるダイスもトランプも、それどころかキャラクターを記述するデータ群すらも介在しない。TRPGはそうした多層構造を持っているのだ。







   追記

 人間の思考すらも、神経伝達のパターンとして記述可能である以上デジタルな物だと考えるなら、世の中にはアナログは存在しないことになる。

 この場合、例えば人間がアナログ時計を見た際も、神経系の中の整数個の神経細胞がそれぞれ反応したりしなかったりのパターンのみで認識していることになる。単に人間の認識に限界があるために、アナログに見えてしまう(連続的だと認識してしまう)だけだというわけだ。

 或いは、量子力学的には、空間すらも離散的に存在すると考えることもあり得る。この場合も、人間の認識では世界がアナログに見えるだけなんだとも言える。

 いずれにせよ、この視点ではゲームに限らずアナログな物など実際には存在しないということになってしまう。

 ただ、この考え方には重大な欠点がある。

 それは、唯心論と唯物論の対立だと考えてもらえれば話は簡単だろう。

 人間がアナログ時計をアナログだと認識した場合、それを認識する際にも神経系の働きはデジタルである。しかし、神経系の働きがあるからアナログ時計を理解できる、というデジタルな考え方が必ずしも絶対的であるわけではない。逆に、アナログを認識した時に、神経系という働きを見ると、あたかもデジタルな働きをしているだけかのように見えるのだ、というアナログを肯定する見方もあって然るべきだ。

 尚、量子力学では空間を離散的に捉える考え方は存在するが、一般相対性理論や(仮説ではあるが)超ひも理論の考え方となると、逆に世界はアナログなものとして記述される点にも注意されたい。

 よって、こうした水掛け論については、これ以上の論述はしない。ただ、この理論では現実的な反論にはなりえないということをここに附記させていただく。




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